ジャック・エリュール。一九一二年生まれ、一九九四年没。フランス・ボルドーの法学者です。
経歴を先に書いておきます。第二次大戦中、彼はヴィシー政権によって大学の職を追われました。父は逮捕されています。彼は農村へ移り、対独レジスタンスに加わりました。そして、ユダヤ人を匿っています。後年、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」として顕彰されました。
つまり彼は、宣伝によって国が覆われていく過程を、外から観察したのではありません。その真下で、隠れながら見ていた。
戦後、彼は膨大な著作を残します。技術文明論、法制史、そして神学。一九六二年の『プロパガンダ』は、その中でも最も冷たい本です。
エリュールの分析は、宣伝の内容から始まりません。受け手の側の条件から始まります。
彼によれば、プロパガンダが機能するには、受け手が次の三つを満たしている必要があります。
一 日常的に、大量の情報に接していること
二 自分では手の出せない事柄について、意見を持とうとすること
三 自分には物事を判断する力がある、と考えていること
読み返してみてください。これは、無知な人の条件ではありません。
新聞を読み、報道番組を見て、社会の問題に関心を持ち、自分の頭で考えていると信じている人。その人の条件です。
逆に、情報にほとんど触れず、遠くの出来事に関心がなく、自分の判断力を過信していない人には、効きません。伝統的な農村共同体に宣伝が効きにくかった理由を、エリュールはそう説明します。
理屈はこうです。
現代人は、世界中の出来事を知らされます。遠い国の紛争、経済の指標、政治の動き。膨大に知らされる。
しかし、知らされた事柄について、個人にできることは何もありません。ほぼ何も。
この状態が続くと、「知っているのに、何もできない」という緊張が生じます。これは、人にとってかなり不快なものです。
不快だから、人は逃げ道を探します。そして最も安価な逃げ道が、意見を持つことです。
意見を持てば、無力ではなくなった気がします。理解している、把握している、という感覚が得られる。何もできなくても、少なくとも「分かっている側」に立てる。
プロパガンダは、この需要に応える供給です。
混沌とした世界に、筋の通った説明を与える。誰が悪いのか、何が起きているのか、これからどうなるのか。人はそれを、押しつけられるのではなく、求めるのです。
ここがエリュールの最も重い指摘だと思います。プロパガンダは、被害者に押し込まれるものではない。受け手が、自分から取りに行っている。
エリュールは、いくつかの分け方を提示しています。ここでは二つだけ紹介します。
前者は分かりやすい。政府や政党が、目的を持って行うものです。前三回で扱ったのは、主にこちらでした。
問題は後者です。
社会学的プロパガンダには、発信者がいません。
映画、広告、教育、生活様式、娯楽。これらを通じて、何が正常で、何が望ましく、何が恥ずかしいことなのかという感覚が、社会全体に浸透していきます。誰も指令していない。それぞれが自分の商売や仕事をしているだけです。しかし結果として、一つの生き方が「当たり前」として定着する。
誰も仕掛けていないので、批判の宛先がありません。糾弾すべき相手がいない。だから、これは最も強力です。
扇動型は、人を怒らせ、動かします。目立ちますが、長続きしません。
統合型は、人を落ち着かせ、社会に馴染ませます。目立ちませんが、恒久的です。エリュールは、豊かな社会でより重要なのは後者だと述べています。
怒りを煽るものより、安心させるもののほうを警戒せよ、ということです。
ここで、この連載の第一回に戻ります。
エリュールによれば、プロパガンダは人の考えを変えません。変えようとしても失敗します。
やるのは、すでにある傾きに、接ぎ木をすることです。
もともと不安に思っていたことを、はっきりした形にする。漠然と感じていた違和感に、名前と説明を与える。すると人は、納得します。そして、それを自分で考えた結論だと感じます。
外から来たものだという感覚が、まったく残らない。これが、この機構の核心です。
私が『シオンの議定書』を「当たっている」と感じたのは、これでした。
日本の現状に対して、私はもともと不安を持っていました。そこへ、その不安に形を与える文書が現れた。私は納得した。そして、自分で調べて得た確信だと思っていた。
納得したという感覚そのものが、判断の材料にならない。それが、この連載を始めたときに私が学んだことです。
ここで、はっきり書いておかねばなりません。
「もっと知れば守れる」という考えを、エリュールは否定します。情報の量は、防御ではなく前提条件のほうだからです。三つの条件の一番目が、まさにそれでした。
より多く読み、より多く調べ、より多くを知る。それは免疫を作りません。
そしてもう一つ、彼は残酷なことを指摘しています。プロパガンダに深く入った人は、対話ができなくなる。
説明はできます。むしろ雄弁になります。しかし、相手の話を聞いて自分の見方が動く、ということが起きなくなる。反対意見は、理解の対象ではなく、処理の対象になります。相手が何を言っているかではなく、相手がどの陣営かで判断が済んでしまう。
自分がそうなっているかを確かめる方法は、一つしかないと思います。最近、人の話を聞いて考えを変えたことがあるか。思い出せないなら、注意したほうがいい。
エリュールは楽観的な結論を用意しません。この本には解決策の章がない。それでも、彼の分析から引き出せるものはあります。
四つ目が、いちばん大事だと思います。エリュールが繰り返し述べるのは、孤立した個人はプロパガンダに対して無力だということです。群衆の中にいても、実質的に孤立していれば同じことです。
逆に言えば、生身の人間関係が残っている人は、そう簡単には落ちません。反論してくれる家族、意見の合わない友人、話の通じない隣人。厄介ですが、あれが防具です。
エリュールがこの本を書いたのは一九六二年です。彼が「社会学的プロパガンダ」の例に挙げたのは、映画と広告と教育でした。
誰も指令していないのに、何が正常かの感覚が形成されていく。発信者を特定できないから、批判の宛先がない。
――この記述が、いま何を指しているかは、お分かりかと思います。
次回は、この枠組みで推薦アルゴリズムとAIを読みます。そして避けて通れないことが一つあります。この連載自体が、AIとの協働で書かれている。第一回で明かしたとおりです。
ならば、この四回で並べた手口を、この連載自身に当てはめてみなければ、筋が通りません。次回はそこから始めます。