夜中の二時ごろのことです。
おむつを開けた瞬間に、これは着替えとシーツだけでは済まないと分かります。便秘の方に前の晩、下剤が入っていました。おむつの容量を超えて排便があれば、必ず漏れます。背中まで回っていることもあります。
まず、汚れを拭き取ります。背中、臀部、脚。清拭というのは、蒸しタオルで拭くということです。それから寝間着を替えていただき、シーツを引き抜いて新しいものを敷き、汚れが染みていれば布団も交換します。
赤ん坊の世話ではありません。大人の体です。痛みを与えないように、そして何より、ご本人の羞恥心に触れないように動かさなければなりません。多くの方は、申し訳なさそうにされます。そのお気持ちのほうが、こちらには応えます。
担当は二十名ほどです。一晩にそういう方が三人出れば、仮眠の時間は消えます。
拭いている最中、ずっと思っていることがあります。
湯で流してさしあげれば、これで済むのに、と。
施設には特別浴槽があります。寝たきりの方でも入れる設備です。あそこへお連れして、湯で洗い流せば、きれいになります。タオルで何度も拭くのとは、仕上がりも、ご本人の心地よさもまるで違います。所要時間だって、場合によっては短いかもしれません。
実際、私は現場でそうしたことがあります。同じ夜勤の仲間と相談して、この方はお湯で洗ってさしあげようと決めたのです。
叱られはしませんでした。むしろ、よくやったと言われました。私の働いていた施設は、そういう場所でした。
ですから、これは禁じられた行為をした話ではありません。誰かに責められた話でもありません。問題は、もっと静かなところにあります。
そういう場面で湯を使うという仕事は、介護保険の制度の中に定義されていません。
入浴の介助は定められています。しかし、夜間に失禁があった際の洗浄という項目は、私の知る限り、どこにもありません。
定義がないということは、どういうことか。
人員配置の基準は、定められた業務量から積み上げて決まります。報酬もそうです。ですから、定義のない仕事は、どれだけ現場で行われていても、必要な人手として数えられることがありません。
結果として何が起きるか。やる施設もやらない施設も、同じ人数で運営されるのです。
良心的な施設ほど、見えないところで無理を吸収します。夜勤の職員が、仮眠を削り、自分たちの判断でやりくりする。それが積み重なっても、どこにも記録されません。翌年の人員配置にも、報酬にも、反映されない。
誰も悪くありません。国が意地悪をしているわけでも、経営者が渋っているわけでもない。ただ、書かれていないのです。
ここが、今回いちばん申し上げたいところです。
制度に定義があると聞くと、多くの方は「縛られる」と受け取られると思います。あれをしてはいけない、これは手順通りに、という規則の話だと。
しかし、現場で働いた者の感覚は逆です。
定義とは、その仕事のために人と時間を確保するための根拠です。
失禁時の洗浄という行為が制度に定められれば、それにどれだけの手間がかかるかを積算できます。一件あたり何分、夜勤帯に何件想定されるか。そこから必要な人員が出ます。報酬にも乗ります。設備の整備にも根拠ができる。
定義がないから、その仕事は個々人の裁量と善意に委ねられたままになる。善意に頼る仕組みは、人が減れば真っ先に破れます。
今、余裕のある施設では行われているでしょう。しかし夜勤の人数がもう一人減ったとき、同じことができるでしょうか。できなくなったとき、それは職員の心構えの問題として語られるのではないでしょうか。私はそれを恐れます。
人手が足りないなら機械を、という話になります。分けて考えてみます。
助けられそうなことはあります。排泄の周期を記録から読み取って、そろそろの時間帯を知らせる。下剤を用いた方の状態を、体動から拾って早めに気づかせる。漏れる前に気づければ、後始末そのものが減ります。これは計算の仕事ですから、機械のほうが得意です。
けれども、汚れた体を拭くこと、着替えていただくこと、シーツを引き抜いて敷き直すこと。この部分は、どうやっても人の手が要ります。
職員に装着する型の補助具についても、一言申し上げておきます。
腰を守る機器の開発が進んでいると聞きます。ありがたい面はあるのでしょうが、私はいくらか疑っています。あれは、職員一人がご利用者様一人に向き合うという形をそのまま残したまま、職員の力だけを増やすものです。着脱にも手間がかかり、機器の管理という仕事がむしろ増えます。
そして、この仕事の難しさは、力ではありません。 相手の体の状態を読み、声をかけ、痛みを与えず、羞恥心に触れないように動かす。そこが難しいのです。力を足しても、そこは残ります。
変えるとすれば、人に着せるのではなく、周りの側だと思います。持ち上げなくて済むベッド、体位を変えられる寝具、洗いやすい浴室。人が持ち上げることを前提に作られた建物と道具を、前提から変える。そちらのほうが筋が通るのではないでしょうか。
もうひとつ、書いておきたいことがあります。
夜のうちに下剤を用いるという判断は、どこかで誰かがしています。医師や看護職の判断であり、便秘を放置しないための必要な処置です。
しかし、その結果を受け止めるのは、人数の最も少ない夜勤帯です。
判断をする人と、後始末をする人が分かれている。 そして、その判断がどこにどれだけの負荷として落ちるかは、制度の中で見えていません。
これも、誰かを責める話ではありません。処置は必要ですし、夜勤の職員はそれを引き受けます。ただ、負荷の行き先が数えられていないという点では、湯の話とまったく同じ構造です。
介護職員は、令和二十二年度に約二百七十二万人が必要とされています。令和四年度の約二百十五万人から、五十七万人の増員です。年に三万人以上を増やし続けなければ届きません。
ところが令和四年度、離職する人の数が、新たに入る人の数を初めて上回りました。
この数字が意味するのは、夜勤の人数がこれから減るということです。
そのとき、数えられていない仕事はどうなるか。答えははっきりしています。まず、そこから消えます。 制度に定めのない仕事は、人手が減れば真っ先に削られる。誰も責任を問われないからです。
そして削られたあとに残るのは、拭くだけで済まされた方と、それを心苦しく思う職員です。
私はこの問題を、人手不足の一例だとは考えていません。
人手不足の話であれば、人を増やせ、賃金を上げろ、で済みます。それも必要です。しかしここで起きているのは、足りている人ですら最善を尽くせないという別の問題です。
今の議論は、何万人足りないという数の話に集まっています。けれど現場にあるのは数ではありません。夜中に汚れてしまった方を前にして、湯で洗ってさしあげたいと思う、その具体です。
制度を書くというのは、その具体を数えられる形にすることだと思うのです。
そしてこれは、介護だけの話ではないはずです。定められていないけれど必要な仕事を、現場の人間が黙って引き受けている。そういう場所が、この国にはいくつもあるのではないでしょうか。人が減っていく時代に、善意で埋めてきた隙間は、順に開いていきます。
開く前に、数え直しておきたいと思うのです。