令和八年八月二十七日、トヨタ自動車が自動運転についての方針を発表しました。二〇二八年からレベル2++と呼ばれる機能を量販車に搭載し、二〇三〇年までに商用シャトルでレベル4を目指すという内容です。日産は二〇二七年度中、ホンダは二〇二八年に、同じ系統の技術を載せた車を出す予定だと報じられています。
技術の話としては、明るい知らせです。ただ私が気になったのは、この発表を報じる記事の片隅に添えられていた一行のほうでした。運転士不足で路線が減っている、免許を返したくても返せない高齢者がいる、という文脈です。
そこで、日付を並べてみました。すると、はっきりしたことがあります。
まず、人の側の数字です。
次に、技術の側の日付です。レベル2++が二〇二八年。商用シャトルのレベル4が二〇三〇年まで。自動運転バスの実証実験は、現在全国約百か所で行われています。
この二つを重ねると、答えは出ています。
実験段階の自動運転バスが、この数年で万人単位の運転士不足を一気に解決するだけの台数で供給されることは、まず考えられません。これは技術者の怠慢ではなく、単純に時間の問題です。
ですから、技術の到来を待つという構えは成り立たないと思うのです。二〇三〇年に間に合わせるのではなく、二〇三〇年まで持ちこたえる仕組みを、今の技術で作らなければならない。
ここで、考え方を一つ切り替えたいと思います。
人手不足の話になると、たいてい「足りない分をどう埋めるか」という形で語られます。運転士が足りないから自動運転を、介護職員が足りないから見守り機器を、というふうに。
この発想では、間に合いません。減る速さのほうが、機械が届く速さより速いからです。
必要なのは、誰が何を担うのかを、根本から組み替えることだと思います。 同じ人数でも、担うものを入れ替えれば、できることは変わります。
ただし、この組み替えには限界があります。そこを見誤ると、机の上だけの話になります。私は介護福祉士として現場に立ってきましたので、次の節ではその限界のほうから書きます。
すでに動いている例があります。
ある自治体では、当初九つのバス路線をすべて廃止する案が出ていました。運転士が足りないからです。そこで利用実態を数字で把握し直し、広域の移動は路線バスとして残し、市街地は循環バスに集約し、それ以外をAIによる予約制の運行に切り替えました。結果として、数路線を維持したまま代替手段へ移行できたと報告されています。
ここで働いたAIは、運転をしていません。誰をいつどこへ運ぶかという配車の設計だけを担っています。 運転席には人が座ったままです。
それでも路線は残りました。決まった時刻に空のバスを走らせる代わりに、人がいるところへ人を運ぶ。同じ運転士の人数で、より多くの用を足せるようになったわけです。
自動運転を待つ必要はありません。配車を組み替えるだけなら、今日からできます。
移動については、配車を組み替えるという道筋が見えました。しかし介護では、同じようにはいきません。
介護の話になると、記録の電子化がよく挙がります。私も最初、そう書きかけました。しかし現場の時間を圧倒的に占めているのは、そこではありません。食事の介助、トイレの介助、おむつの交換、体位の交換、入浴の介助。ご利用者様に直接手を触れる仕事です。 記録は、その合間に押し込むものであって、時間の主役ではありません。
私は介護福祉士として夜勤に入ってきましたので、そこは身体で知っています。そして機械にできることは、この物理的な部分の手前までです。排泄の周期を読んで知らせる、巡回の順を組む。そこから先の、手を触れる仕事は残ります。
そのうえ介護には、人手とは別の壁があります。制度に定義されていないために、必要な仕事が仕事として数えられていないという空白です。定義がなければ人員配置にも報酬にも乗らず、現場の善意だけで埋められることになります。善意に頼る仕組みは、人が減れば真っ先に破れます。
この問題は一節では書ききれませんので、稿を改めました。数えられない仕事としてまとめてありますので、そちらをご覧いただければと思います。
定義がないという壁は、介護だけの話ではありません。もっと大きな形で、同じことが起きています。
交通の話は国土交通省、介護の話は厚生労働省、AIの話は経済産業省とデジタル庁。それぞれが真面目に取り組んでおられます。しかし、一人の高齢者の暮らしは、省庁ごとに分かれてはいません。
免許を返した方が病院へ行けなくなり、通院が減って体調を崩し、介護が必要になる。これは一続きの出来事です。ところが対策は、交通の話と介護の話に切り分けられて、別々の会議で議論されます。
私は以前、国民の役務に関する制度の提言を書いた際にも、同じ壁に突き当たりました。人の暮らしは横につながっているのに、制度は縦に割れている。
ですから、この提言の第一の柱はこうなります。人口減少への対応は、分野ごとの対策の寄せ集めではなく、一つの設計として書かれなければならない。 移動と介護と行政手続きを、同じ設計図の上に置く。そのための司令塔が要ります。
そして第二の柱は、先ほどの特別浴槽の話から出てきます。人が減るのなら、少ない人が最善を尽くせるように、定義のほうを広げるべきではないか。 現場の判断で必要だと思ったことができる幅を、制度の側に用意しておく。機械を入れる前に、これが先だと私は思います。
最後に、いちばん大事なことを書きます。
組み替えという言い方をしてきましたが、では何を機械に渡し、何を人が持ち続けるのか。ここを決めずに進めれば、ただの人減らしになります。
私の考えは、こうです。
ただ、介護の現場について言えば、この線引きは思ったほど役に立ちません。手順が決まっているように見える仕事の大半が、人の体に直接触れる仕事だからです。おむつを替えることは手順ですが、渡しようがない。
ですから、こう言い直します。渡せるのは、気づくための材料を用意する部分までです。 そこから先が残るのなら、その人数を確保することと、その人たちの仕事を数えられる形にすることのほうが先になります。
移動でいえば、目的地まで運ぶことは、いずれ機械が担えるでしょう。けれど、乗り込むときに手を貸すこと、降りたあとを見送ることは、別のものです。
人が減るのは、変えられません。ですから、少ない人が何をするために残るのかを決める。それを決めないまま機械を入れれば、効率だけが上がって、暮らしは痩せていきます。
人口が減るということを、私たちはまだ本当には受け入れていないのだと思います。
足りない、埋めなければ、という語り口が続いているのが、その証拠です。埋めようとしている限り、私たちは減る前の姿を基準にしています。
そうではなく、減ったあとの姿を先に描いて、そこへ向かって組み替える。 減ることを嘆く段階から、減ることを前提に設計する段階へ移らなければ、間に合わないところまで来ていると思うのです。
そしてもう一つ。人口減少の議論は、どうしても人数の話になります。何万人足りない、何割減る、と。けれど現場にあるのは数ではありません。夜中に汚れてしまった方を前にして、湯で洗ってさしあげたいのにそれができない、という具体です。設計を書くなら、その具体から書き始めるしかないと思うのです。
私は今年で七十三になります。介護福祉士として人を支える側にいながら、いずれ免許を返す側でもあります。この二つは、別の立場ではありません。同じ一人の中に、どちらもある。
おてんとうさまの下では、支える人も支えられる人も、同じ地面の上にいます。今日支えている人が、明日は支えられる。その順番が回ってくるだけのことです。
ですから、この設計は誰かのためのものではありません。私たち自身のためのものです。生かされて今を存在する者として、その先を生きる人たちへ、少しでも整った形で渡していきたいと思っています。