前の稿で、一つだけ書き残したことがあります。
ウクライナの通信会社の話です。
戦争が始まってから、あまりに人手が足りなくなった。若者は前線へ行き、地方ほど作業員が確保できない。
そこで、どうなったか。
講演でこの話を聞いたとき、私は思わず前のめりになりました。
社長が、です。
私がこの話に反応したのには、理由があります。
日本にも、同じことをする人がたくさんいるからです。
むしろ、こう言ったほうが正確かもしれません。日本では、それが当たり前だと思われている。
工場の社長が作業着で現場に立つ。店の主人が厨房に入る。会社の役員が災害のとき現地へ飛ぶ。珍しいことではありません。
頭でっかちな人が日本にいないとは申しません。数字だけを見て現場を知らない人も、もちろんいます。
それでも、西欧の方々と比べたとき、現場へ飛び込んでいく人の割合は、比較にならないほど多いと私は感じてきました。
あちらでは、経営と現場がはっきり分かれています。経営者は経営の専門家であり、機械には触れません。それが職分というものだ、という考え方です。
その考え方が間違っているとは思いません。ただ、私たちのやり方とは違います。
最近、私はその例をひとつ見ました。
ロサンゼルス・ドジャースのパーソナルトレーナーとして、日本から矢田修さんという方が球団の正式スタッフになっています。柔道整復師で、六十六歳。大阪で接骨院を営んでこられた方です。
山本由伸投手の専属トレーナーとして渡米し、今ではベッツ選手も指導を受けていると報じられています。
この方が持ち込んだのは、最新の機械でも薬でもありませんでした。立ち方と、歩き方です。
ウエイトトレーニングに頼らず、立つ・歩く・走るという身体本来の動きを取り戻す。それがこの方の理論の中心だそうです。
そして、この方は治療室に座って待っているのではありません。遠征に同行し、ベンチの近くにいて、選手の体を直接見ている。
六十六歳で外国の球団に採用されること自体が、なかなかないことです。その方が現場へ降りていっている。
ここからが、本題です。
現場へ降りる人がいるということは、降りない人もいるということです。
そして、その差は平時には見えません。事が起きたときに、はっきり現れます。
平成二十三年の東日本大震災を思い出してください。
福島第一原子力発電所では、現場の人たちが事故の拡大を防ぐために文字通りの死闘を繰り広げました。あのとき何が行われていたかは、国会と政府の事故調査委員会の報告書に記録されています。
では、上に立つ者は何をしたか。
ここは、慎重に書きます。個人を責める話にはしたくないからです。
問題は、人ではなく構造だと思うからです。
国会事故調査委員会の報告書には、官邸の関与について踏み込んだ記述があります。
詳しくは報告書をお読みいただくのがよいと思いますが、私が受け取った要点は、こうです。
本来、現場の判断は現場に委ねられるべきものでした。ところが官邸が個別の技術的判断にまで直接関与したことで、現場の対応に混乱が生じたという指摘がなされています。
ここで大事なのは、動機の問題ではないということです。
おそらく、善意だったのだと思います。国の一大事に、自分が何とかしなければならないと考えた。その気持ち自体を責めるつもりはありません。
しかし、現場を知らない者が現場へ直接指示を出すと、現場は止まります。
なぜなら、現場の人間は目の前の作業を中断して、その指示に答えなければならないからです。説明し、報告し、了解を取る。その時間は、作業の時間から引かれます。
そして、現場にしか分からないことがあります。配管の癖、機械の限界、この操作をすると別のどこに負荷が行くか。図面や報告書には出てこないものです。
それを知らない者が、良かれと思って指示を出す。現場は従わざるを得ない。結果として、いちばん分かっている人間の手が縛られる。
ここまで来ると、対比がはっきりします。
雪深い基地局へドラム缶を担いでいった社長は、現場が足りないから自分が入ったのです。
一方、現場を知らずに指示を出す者は、現場に入らずに現場を動かそうとする。
この差は、能力の差ではありません。経歴の差でもない。
現場へ降りる人は、自分の責任が現場まで及んでいると考えています。だから足りなければ自分で担ぐ。
降りない人は、自分の責任は指示を出すところまでだと考えています。だから指示は出すが、結果は現場の責任になる。
ただし、公平を期すために書いておきます。
上に立つ者が現場へ降りれば、それでよいという話でもありません。
震災のときの官邸の関与も、ある意味では現場へ降りようとしたものでした。現地へ視察に行き、直接指示を出した。形の上では、現場に近づいています。
では、何が違うのか。
降りて何をするかです。
ドラム缶を担いだ社長は、現場の仕事を一人分、引き受けました。指示を出しに行ったのではありません。足りない人手の穴を埋めに行った。
矢田さんも同じです。ベンチにいて指示を出すのではなく、選手の体に触れている。
現場へ降りるというのは、現場の仕事をすることです。 現場へ行って指示を出すことではありません。
ここを取り違えると、降りたことがかえって害になります。
私は今、七十三になります。
会社の代表をしておりますが、介護福祉士として夜勤にも入ってきました。事務所の電話が壊れれば、自分で機器を触ります。それがよいことだと言いたいのではありません。人数が少ないので、そうするしかないだけです。
ただ、そうやって現場にいると、分かることがあります。
報告書には出てこない数字があること。現場が何を我慢しているか。どこに無理が溜まっているか。
そして、こうも思います。
有事になったとき、指示を出す人はたくさんいるでしょう。政府も、自治体も、会社も、みな何かを言うはずです。
けれど、実際に担ぐ人はどれだけいるでしょうか。
ウクライナでは、社長が担ぎました。奪還した町へ、軍の次に銀行員と通信技術者が入っていきました。
日本でも、同じことができると私は思っています。震災のとき、それは実際に起きました。
問題は、そういう人たちの手を縛らない仕組みが、今あるかどうかです。
次の稿では、その仕組みについて書きます。講演の質疑応答で、私が松原先生に伺ったことです。
松原先生が講演のスライドで用いられた写真・資料の出典です。制作者がまとめました。直接閲覧できないものは、報道などで内容を確かめています。