おてんとうさまの下で記録 / 本文

社長が、ドラム缶を担ぐ

――有事の備えについて(二)
2026年9月21日論考防衛・安全保障

前稿:つなぎ続けること(有事の備えについて・一)

前の稿で、一つだけ書き残したことがあります。

ウクライナの通信会社の話です。

一、その一行

戦争が始まってから、あまりに人手が足りなくなった。若者は前線へ行き、地方ほど作業員が確保できない。

そこで、どうなったか。

社長自らドラム缶を担いで、雪深いところにある基地局へ燃料を運びに行った。

講演でこの話を聞いたとき、私は思わず前のめりになりました。

社長が、です。

二、日本人は、現場へ降りる

私がこの話に反応したのには、理由があります。

日本にも、同じことをする人がたくさんいるからです。

むしろ、こう言ったほうが正確かもしれません。日本では、それが当たり前だと思われている。

工場の社長が作業着で現場に立つ。店の主人が厨房に入る。会社の役員が災害のとき現地へ飛ぶ。珍しいことではありません。

頭でっかちな人が日本にいないとは申しません。数字だけを見て現場を知らない人も、もちろんいます。

それでも、西欧の方々と比べたとき、現場へ飛び込んでいく人の割合は、比較にならないほど多いと私は感じてきました。

あちらでは、経営と現場がはっきり分かれています。経営者は経営の専門家であり、機械には触れません。それが職分というものだ、という考え方です。

その考え方が間違っているとは思いません。ただ、私たちのやり方とは違います。

三、六十六歳が、ベンチに立つ

最近、私はその例をひとつ見ました。

ロサンゼルス・ドジャースのパーソナルトレーナーとして、日本から矢田修さんという方が球団の正式スタッフになっています。柔道整復師で、六十六歳。大阪で接骨院を営んでこられた方です。

山本由伸投手の専属トレーナーとして渡米し、今ではベッツ選手も指導を受けていると報じられています。

この方が持ち込んだのは、最新の機械でも薬でもありませんでした。立ち方と、歩き方です。

ウエイトトレーニングに頼らず、立つ・歩く・走るという身体本来の動きを取り戻す。それがこの方の理論の中心だそうです。

そして、この方は治療室に座って待っているのではありません。遠征に同行し、ベンチの近くにいて、選手の体を直接見ている。

六十六歳で外国の球団に採用されること自体が、なかなかないことです。その方が現場へ降りていっている。

四、では、降りない人はどうなるか

ここからが、本題です。

現場へ降りる人がいるということは、降りない人もいるということです。

そして、その差は平時には見えません。事が起きたときに、はっきり現れます。

平成二十三年の東日本大震災を思い出してください。

福島第一原子力発電所では、現場の人たちが事故の拡大を防ぐために文字通りの死闘を繰り広げました。あのとき何が行われていたかは、国会と政府の事故調査委員会の報告書に記録されています。

では、上に立つ者は何をしたか。

ここは、慎重に書きます。個人を責める話にはしたくないからです。

問題は、人ではなく構造だと思うからです。

五、指示が、現場を止める

国会事故調査委員会の報告書には、官邸の関与について踏み込んだ記述があります。

詳しくは報告書をお読みいただくのがよいと思いますが、私が受け取った要点は、こうです。

本来、現場の判断は現場に委ねられるべきものでした。ところが官邸が個別の技術的判断にまで直接関与したことで、現場の対応に混乱が生じたという指摘がなされています。

ここで大事なのは、動機の問題ではないということです。

おそらく、善意だったのだと思います。国の一大事に、自分が何とかしなければならないと考えた。その気持ち自体を責めるつもりはありません。

しかし、現場を知らない者が現場へ直接指示を出すと、現場は止まります。

なぜなら、現場の人間は目の前の作業を中断して、その指示に答えなければならないからです。説明し、報告し、了解を取る。その時間は、作業の時間から引かれます。

そして、現場にしか分からないことがあります。配管の癖、機械の限界、この操作をすると別のどこに負荷が行くか。図面や報告書には出てこないものです。

それを知らない者が、良かれと思って指示を出す。現場は従わざるを得ない。結果として、いちばん分かっている人間の手が縛られる。

六、二つの態度

ここまで来ると、対比がはっきりします。

雪深い基地局へドラム缶を担いでいった社長は、現場が足りないから自分が入ったのです。

一方、現場を知らずに指示を出す者は、現場に入らずに現場を動かそうとする。

この差は、能力の差ではありません。経歴の差でもない。

自分の手が届く範囲を、どこまでだと思っているかの差です。

現場へ降りる人は、自分の責任が現場まで及んでいると考えています。だから足りなければ自分で担ぐ。

降りない人は、自分の責任は指示を出すところまでだと考えています。だから指示は出すが、結果は現場の責任になる。

七、それでも、降りればよいわけでもない

ただし、公平を期すために書いておきます。

上に立つ者が現場へ降りれば、それでよいという話でもありません。

震災のときの官邸の関与も、ある意味では現場へ降りようとしたものでした。現地へ視察に行き、直接指示を出した。形の上では、現場に近づいています。

では、何が違うのか。

降りて何をするかです。

ドラム缶を担いだ社長は、現場の仕事を一人分、引き受けました。指示を出しに行ったのではありません。足りない人手の穴を埋めに行った。

矢田さんも同じです。ベンチにいて指示を出すのではなく、選手の体に触れている。

現場へ降りるというのは、現場の仕事をすることです。 現場へ行って指示を出すことではありません。

ここを取り違えると、降りたことがかえって害になります。

結び

私は今、七十三になります。

会社の代表をしておりますが、介護福祉士として夜勤にも入ってきました。事務所の電話が壊れれば、自分で機器を触ります。それがよいことだと言いたいのではありません。人数が少ないので、そうするしかないだけです。

ただ、そうやって現場にいると、分かることがあります。

報告書には出てこない数字があること。現場が何を我慢しているか。どこに無理が溜まっているか。

そして、こうも思います。

有事になったとき、指示を出す人はたくさんいるでしょう。政府も、自治体も、会社も、みな何かを言うはずです。

けれど、実際に担ぐ人はどれだけいるでしょうか。

ウクライナでは、社長が担ぎました。奪還した町へ、軍の次に銀行員と通信技術者が入っていきました。

日本でも、同じことができると私は思っています。震災のとき、それは実際に起きました。

問題は、そういう人たちの手を縛らない仕組みが、今あるかどうかです。

次の稿では、その仕組みについて書きます。講演の質疑応答で、私が松原先生に伺ったことです。

講演資料の出典

松原先生が講演のスライドで用いられた写真・資料の出典です。制作者がまとめました。直接閲覧できないものは、報道などで内容を確かめています。

導入
Kyiv Independent(2025年6月24日)
ドニプロへの弾道ミサイル攻撃。旅客列車が被弾し、死者二十一人・負傷者三百人以上。
Al Jazeera(2024年12月11日)
地雷で右脚を失い、退役軍人の認定が進まず困窮する元兵士の話。
電力・エネルギー業界
CNN(2026年1月24日)
空襲中も最低二人が制御盤に残り、土嚢で囲んだ鋼鉄製カプセルに入る。二〇二五年のエネルギー施設への攻撃は六百十二回。
DTEK公式X(2026年3月)
電気技師二人が乗った車両をFPVドローンが直撃。二人は直前に脱出。
※直接閲覧不可。同社公式サイトの発表で内容確認
通信事業者の修理と停電対策
スーミー州軍政長官のTelegram(2022年10月2日)
ウクルテレコム社員四人の車両が地雷に接触。運転手が即死、三人が搬送。
※直接閲覧不可。各報道で内容確認
金融業界の備え
Euromoney(2023年12月6日)
ウクライナ国立銀行総裁への取材。土嚢を積んだ入口と、空襲時に職員が働く地下駐車場。
運輸業界の取り組みと被害
ウクライナ鉄道公式X(2025年11月4日)
殉職した鉄道員を追悼する動画「鉄の記憶の列車」。
※直接閲覧不可。大統領府サイト等で内容確認
Interfax-Ukraine(2026年7月7日)
ブチャ地区ヴィシュネヴェで、百六十世帯以上が住む鉄道員社宅七棟が損壊。
United24 Media(2026年3月25日)
列車への攻撃の増加と、二十四時間体制の監視網、乗客の退避手順。
United24 Media(2026年5月6日)
全国に八百以上のモジュール式シェルターを配備。
占領地域の重要インフラ企業
New York Times(2022年8月9日)
占領下のヘルソンで、通信網がロシア経由へ付け替えられた経緯。
従業員と家族への支援
⑫ ウクライナ鉄道「アイアン・ファミリー」募金ページ
ドローン攻撃で亡くなった鉄道員の遺族を支える募金。
※URL確認中
DTEK Energy(2024年11月20日)
VR技術を使った従業員のメンタルヘルス支援。
行方不明者の扱い
AP通信(YouTube)(2026年5月22日)
行方不明の兵士を法的に死亡と宣告できる法律への抗議行進。
※直接閲覧不可。AP配信記事で内容確認
殉職者の追悼と叙勲
DTEK Energy(2025年4月18日)
大統領が電力技術者に勲章を授与。
NashKiev(2023年2月25日)
キーウ中央駅前に、殉職した鉄道員の仮設記念碑。
戦没者の埋葬
RFE/RL(2024年5月24日)
ウクライナとロシアで拡大する軍人墓地の写真。
台湾有事の前哨戦
琉球朝日放送(2025年3月10日)
ポール・ナカソネ元米サイバー軍司令官への取材。ボルト・タイフーンに関する発言を含む。
中東情勢
The Hormuz Letter 公式X(2026年8月22日)
UAEが燃料タンクの周囲に建設した金属製の防護檻。
※直接閲覧不可。各報道で内容確認
※本稿のウクライナに関する記述は、令和八年九月五日の松原実穂子先生の講演によります。福島第一原子力発電所事故に関する記述は、国会および政府の事故調査委員会報告書の公表内容に基づき、要点を制作者の理解でまとめたものです。特定の個人の責任を論じることを目的としていません。講演資料の出典は、制作者が講演のスライドをもとにまとめたものです。第六節および第七節の見方は制作者個人のものです。
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