バンタム級で4団体統一を果たした井上は、手にしたばかりのベルトをすべて返上した。守り続ければ安定は約束されている。しかし井上が求めてきたのは、地位でも報酬でもなく、強い相手と戦うことだった。次の舞台は、一つ上のスーパーバンタム級である。
最初の相手に選ばれたのは、WBC・WBO王者スティーブン・フルトン。無敗の米国人で、長身と長いリーチ、そして肩で相手の攻撃を受け流す独特の守りを持つ。当時、この階級で最も強いと目されていた選手だった。
試合前、フルトン陣営は強気だった。井上には強打以外に何があるのか、と挑発する言葉も聞かれた。一方の井上は、12回を通して動き続けられる相手の力を率直に認め、これまで戦ったことのない型の選手だと語っていた。
予定は5月だったが、井上が練習中に拳を痛め、試合は7月に延期される。直前には、井上のバンテージの巻き方をめぐってフルトン陣営が異議を唱える騒ぎもあった。
2023年7月25日、有明アリーナ。フルトンの武器とされたジャブの差し合いを、井上は序盤から制した。相手のジャブに合わせてワンツーを返し、ボディを打ち続ける。8回、右の強打でフルトンをぐらつかせると、すかさず左フックで倒し、ロープ際の連打で試合を終わらせた。4階級制覇の達成である。
フルトン戦の会場の最前列には、もう一人の王者が座っていた。WBA・IBF王者のマーロン・タパレスである。試合後、タパレスはリングに上がり、井上への挑戦を表明した。
2023年12月26日、再び有明アリーナ。サウスポーのタパレスは、構えを広く取り、硬いジャブと的確な防御で井上に簡単には距離を詰めさせなかった。井上が得意とするボディ攻撃も、なかなか思うように当たらない。
流れを変えたのは、中間距離での打ち合いだった。4回、井上が連打で倒す。それでもタパレスは粘り、試合は終盤までもつれた。10回、井上の右がとらえ、タパレスは立ち上がれなかった。
バンタム級に続き、スーパーバンタム級でも4団体を統一。2階級での4団体統一は、テレンス・クロフォードに次ぐ史上2人目の快挙だった。
2024年5月6日、東京ドーム。ボクシングの興行がここで開かれるのは34年ぶりのことである。相手はメキシコのルイス・ネリ。かつて山中慎介との2度の対戦で、禁止薬物の検出や体重超過を起こし、日本での試合を禁じられていた選手だった。日本のファンにとっては、忘れがたい因縁の相手である。
1回、ネリの左がとらえ、井上はプロ入り後初めてキャンバスに倒れた。会場は一瞬、静まり返る。しかし井上はすぐに立ち上がり、落ち着いて残りの時間をしのいだ。
2回、左フックで倒し返す。以降は完全に主導権を握り、5回にも倒すと、6回、右の連打で試合を終わらせた。
後に井上は、あのダウンがかえって気持ちを引き締めてくれたと振り返っている。倒されても崩れない。その強さを、世界が初めて目にした一戦だった。
同年9月にはTJ・ドヘニーを7回TKOで下す。12月に予定していたサム・グッドマン戦は、相手の目の負傷で流れた。急きょ代役を引き受けたのは韓国のキム・イェジュン。井上は2025年1月、4回KOで退けた。
2025年、井上は1年に4度リングに上がる。5月のラスベガスではラモン・カルデナスに2回に倒されながら、8回TKOで逆転。9月、名古屋では「キャリア最大の敵」と目されたムロジョン・アフマダリエフを判定で下した。
そして12月、サウジアラビア・リヤド。WBC同級2位のアラン・ピカソに3-0の判定勝ちを収め、ジョー・ルイス、フロイド・メイウェザーを超えて世界戦27連勝の歴代単独1位となった。ただし本人は、ガードを固めた相手に苦戦し、内容には納得していないと語っている。記録を塗り替えてなお満足しない。そこに、この選手の本質がある。
2026年5月2日、東京ドーム。井上の前に立ったのは中谷潤人だった。バンタム級で2つの王座を手にした無敗の強打者で、井上が去った後のバンタム級を席巻してきた選手である。日本人同士の対戦が東京ドームのメインイベントになるのは史上初だった。
座間の井上と、相模原の中谷。同じ神奈川から出た二人の対戦は、地元でも大きな盛り上がりを見せた。
試合は、互いのフェイントとジャブが交錯する、一瞬も目の離せない技術戦となった。体格で勝る中谷の右ジャブに、井上は低い姿勢からの左ボディで応じる。どちらも決定的な一撃を許さないまま、12ラウンドが過ぎていった。
5万5千人の観衆が見守る中、判定は116-112、116-112、115-113の3-0で井上。統一王座を守り抜き、戦績は33戦全勝となった。
井上は年内は試合をしないと明言し、次戦の相手としてWBAバンタム級スーパー王者のジェシー・ロドリゲスの名を挙げ、来年2月ごろにできるならやると語った。ただし、ロドリゲスにこだわっているわけではなく、時期が延びるならフェザー級への挑戦に進むと断言している。フェザー級に上がれば、5階級制覇への挑戦となる。
地元・座間で子どもたちと触れ合ったとき、井上はこう語っている。33歳の今、現役は残り数年。小学1年から始めたボクシングをやめたとき、よかったと思える引退を迎えることが目標だ、と。
五輪にも届かなかった青年が、世界最強と呼ばれるまでになった。
才能だけではない。父と兄弟で積み上げた基礎。最初から強い相手を求めた姿勢。拳を痛めても、目を傷めても、倒されても、そのたびに立ち上がってきた胆力。その一つひとつが「モンスター」を作り上げた。
名声も記録も手にした今なお、井上がリングに上がり続けるのは、何かを付け加えるためではなく、自ら選んだ道を最後まで歩き切るためなのだろう。その道の終わりがどこにあるのか、まだ誰も知らない。
(完)