九月七日、日本時間八日のドジャースタジアム。大谷選手が四試合の欠場を経て打席に戻ってきた試合で、相手チームの遊撃手が初回に本塁打を放ちました。
レッズのエリー・デラクルーズ選手です。
この人のことを書いておきたくなりました。休むということについて四回も書いたあとに、なぜこの若い選手なのか。それは書きながら考えます。
三年前の夏、エンゼルスタジアムでのことです。
ダブルヘッダーの第二試合、五回。大谷選手が二塁打を放って二塁に立ちました。そこへ、当時二十一歳のデラクルーズ選手が歩み寄り、その腕に触れたのです。
試合後、通訳を介して本人が説明しています。守備につく前にチームメイトのマット・マクレーン選手に言っておいた、本物かどうか触って確かめてくると。中継の解説者は、あれは「あなたは実在するのか」と尋ねているようだ、と評しました。
ここまでは、よく知られた微笑ましい話です。ただ、私が今回はじめて知ったことがあります。
その同じ日、大谷選手は右肘の靭帯断裂と診断されていました。
第一試合の途中で降板し、検査の結果が出たのがまさにこの日です。第一試合ではメジャー最多となる四十四号を放ち、それでも肘は壊れていた。そして第二試合、二塁に立つ彼のもとへ、何も知らない二十一歳が無邪気に手を伸ばした。
キャリアで最も重い日に、この人は憧れられていたのです。触れた側は、そのことを知らなかったでしょう。
翌年、デラクルーズ選手は初めてオールスターに選ばれます。
選出後、球宴で何を楽しみにしているかと問われて、こう答えました。翔平と話すために日本語を勉強している、と。
この言葉は、英語で語られています。ドミニカ共和国の出身ですから、母語はスペイン語です。二年目に英語での取材対応を始めたばかりの若者が、その次に日本語へ手を伸ばした。三つ目の言語です。
その少し前、ドジャースタジアムでの試合前にも語っています。もう一度会いたい、前に会ったとき彼は親切だった、素晴らしい選手だ、友達になりたい、と。
ちなみにその日、彼は四打数四安打に四盗塁。試合後、ロバーツ監督は、あれは典型的な五拍子そろった選手で、野球場で彼にできないことは何もない、と述べています。
ここから先は、扱いに気を遣います。
二〇二五年五月三十一日、デラクルーズ選手の姉、ジェネリス・デラクルーズ・サンチェスさんが、長く続いた病の末に母国ドミニカ共和国で亡くなりました。二人のお子さんがおられたと伝えられています。
翌六月一日、リグレー・フィールドでのカブス戦。彼は自ら出場を望みました。フランコナ監督は試合前、必要なことは何でも支えると本人に伝えた、彼は今日出たいと言っている、と語っています。
グラウンドに立った彼のスパイクの後ろには、こう記されていました。
マニータは、スペイン語で姉妹を呼ぶときの愛称です。
六回、二点を追う場面で本塁打を放ちました。通算五十号でした。ベースを回りながら胸を叩き、空を指し、本塁を踏んだあと、両手でハートの形をつくりました。
試合前も試合後も、彼はメディアの前に立ちませんでした。球団も、それ以上の詳細を明かしていません。
チームは七対三で敗れています。フランコナ監督は、こう述べました。彼は出場できるということに大きな誇りを持っている。私たちは試合や勝つことをこれほど大事にしているけれど、あっという間に、本当に大切なものは何かを思い知らされる、と。
四回にわたって、私は大谷選手に休んでほしいと書き続けてきました。
その直後にこの話を書いているのは、少し矛盾しているかもしれません。姉を亡くした翌日に出場を望んだ若者を、私は美しいと感じている。一方で、膝と首を抱えた選手には休めと言っている。
ただ、この二つは違うと思うのです。
体の故障は、無理を重ねれば必ず後になって請求書が来ます。膝も肘も、気持ちでは治りません。けれど悲しみは、体とは別の場所にあります。 グラウンドに立つことでしか収まらない悲しみというものが、たしかにあるのでしょう。監督が止めなかったのは、そこを見分けたからだと思います。
もうひとつ。フランコナ監督の「出場できることに大きな誇りを持っている」という言葉は、大谷選手にもそのまま当てはまります。だからこそ、体のときだけは周りが止める。悲しみのときは、そっと出してやる。監督という仕事は、その見分けなのかもしれません。
正直に書いておきます。
ここに書いたことを、私はある動画で知りました。デラクルーズ選手が長い談話を語る形式で、大谷選手への憧れも、姉上のことも、そこで語られていました。お母様が息子にかけた言葉まで出てきます。お金はもう十分だ、貧しかった頃も家族で笑っていただろう、自分の心が震える場所へ行きなさい、と。
私は心を動かされました。その気持ちを取り消すつもりはありません。
ただ、その談話がいつどこで行われた取材なのかは、どこにも示されていませんでした。ですから、談話は一行も引いていません。 ここに書いたことはすべて、大リーグ機構や通信社が報じた事実だけです。二塁での出来事も、日本語の話も、スパイクの文字も、監督の言葉も、記録に残っているものだけを並べました。
お母様の言葉は、いちばん心に残ったところですが、確かめられませんでした。ですから書けません。いい話ほど、確かめられないと惜しい。 惜しいけれど、惜しいという理由で使ってしまえば、他のすべてが疑われます。
そして、事実だけを並べてみて思いました。これで十分ではないか、と。
本物か確かめようと腕に触れた二十一歳が、翌年には三つ目の言語を学び始め、その次の年には姉を送った翌日にグラウンドへ立ち、そして今年、憧れた人が四試合の休養から戻ってきた日に、その目の前で本塁打を打った。
誰の談話がなくても、この並びだけで伝わるものがあると思うのです。
大谷選手を追いかけていると、その周りに立っている人たちのことが見えてきます。
敵として向かい合いながら、その存在に励まされている若者がいる。悲しみを抱えたまま打席に立つ人がいる。誰かの姿を見て、もう少しやってみようと思う人がいる。
私が四回も休養の話を書いたのは、大谷選手を十年見ていたいと願うからでした。けれど、見ていたいと思っているのは私だけではないのですね。ドミニカ共和国から出てきた二十四歳の遊撃手も、同じことを思っている。
おてんとうさまは、誰の上にも等しく昇ります。